
会社紹介
三和建設の始まりは、ただの事業計画ではありませんでした。
1947年。戦争から帰還した久楽利郎氏は、復興を願い、東ソー初代社長であった岩瀬徳三郎らに相談して「三和建築」を立ち上げました。当初は3名の大工が共同で仕事をしていたことから、社名に三和をつけました。彼はただ「建物を建てる」ことが目的ではなく、「地域を立て直す」ことに人生を捧げたのです。
創業わずか数日で社屋が落雷により全焼するという苦難に見舞われながらも、久楽氏は歩みを止めませんでした。やがて彼は新南陽市(現・周南市)の市長となり、工業団地を誘致し、地域を「工業都市」として発展させていきます。そして、その足元を支える建物を、彼の会社「三和建設」がつくり続けたのです。
1951年には東ソーの出資を受け、社名を「三和建設株式会社」に変更。以来、70年以上にわたり、東ソーのグループ企業として安定的な受注を担いながらも、公共施設、病院、学校、マンション、個人住宅に至るまで、地域のあらゆる「人の暮らし」を支えてきました。
現在では、受注工事の約8~9割が東ソー株式会社およびその関連企業からの案件であり、安定した基盤のもとで着実に事業を展開しています。
「企業は人なり」創業45周年時に河口社長がそう語ったように、社員の技術と情熱は三和建設の最大の資産です。
「技術と信用の三和」。 それは、東ソー永源寮をはじめとした数多くの施工実績が証明しています。
「地域と共に、共存共栄を。」 それは今も、社員一人ひとりの心に息づいています。
近年では、公共建築の耐震補強や高齢化社会への対応など、地域の新たなニーズにも柔軟に応えています。
建築を通じて、地域の課題を解決し、未来をつくる。
この街の未来を建てる。
それが三和建設が存在する理由であり、今も変わらず歩み続ける理由です。
三和建設の社会貢献
三和建設は、1947年の創業以来、「建物を建てることを通じて、地域を支える」という理念のもと、山口県周南市を中心に公共・民間問わず多くの建築を手がけてきました。
たとえば、東ソーの本社事務所・研究所・社宅といった企業インフラだけでなく、道の駅ソレーネ周南、周南市大学キャンパス校舎、西消防署、徳山動物園自然学習館、医院など、地域住民の暮らしを支える公共施設の新築・改修・耐震補強を多数施工。災害に強いインフラ整備や教育・福祉の基盤を支えてきたことは、地域社会への大きな貢献です。
また、近年では高齢化社会を見据えたバリアフリー工事にも注力。地元の歴史と文化を守りながら、誰もが住みやすい街づくりを推進しています。
「地域と共存共栄する企業」として、地元企業や協力業者と連携し、地域経済の活性化にも貢献しています。さらに、社員の定着率が極めて高く、多くの社員が長く働き続けており、それは地域に根ざし、信頼される企業であることの証です。
施工管理
三和建設の施工管理職は、建築プロジェクトにおける「安全・品質・コスト・進捗」管理のプロフェッショナルとして、建物づくりの全工程を一貫して担う仕事です。私たちは、お客様の理想や想いをヒアリングするところから始まり、見積りの作成、協力業者の手配、現場での進行・品質チェック、最終的な引き渡しまで、建物が完成するすべてのプロセスを責任を持って管理します。
この仕事は、ただ現場を動かすだけではありません。関係者が多数関わる建築の現場では、意見の対立やトラブルが起きることもあります。そうした中で、私たち施工管理の役割は、現場を調整し、最適な流れをつくり、プロジェクト全体をスムーズに前進させること。まさに「建築現場の司令塔」として、現場を混乱させず、最大のパフォーマンスを引き出す存在です。
また、建築業界では「図面通りにできて当たり前」と言われる中、私たちはその“当たり前”を愚直に積み重ね、高品質な建物を、予算内で、安全に、納期通りに完成させるという難易度の高い目標に日々挑戦しています。
この事業を行う理由は明確です。どれだけ優れた設計やビジョンがあっても、それを現実にする施工力がなければ、建物は完成しません。私たちは「お客様の夢を形にする」ことを使命とし、現場を通じて社会のインフラや暮らしの基盤を支えています。
そして、この仕事にはもう一つの大きな価値があります。それは、一人ひとりがプロジェクト全体を見渡し、責任を持って動く中小企業ならではの体制により、技術者としての市場価値を高め、“自分の看板”を築けるキャリアが描けるという点です。
建築を通じて、自分の経験を積みたい。信頼される技術者になりたい。そんな想いを持つ方にとって、三和建設の施工管理は、その夢を実現できる舞台です。
三和建設株式会社の企業データ
従業員数
35名(東ソーからの出向者を除く)
年齢層の割合

男女比
